昭和43年9月17日 朝の御理解


 ただ今から、昭和43年9月17日朝の御理解を頂きます。
 御理解第93節
神は一体じゃによってこの方の広前に参ったからと言うて別に違うところはない。あそこでおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬと言うのは、守々の力によって神のひれいが違うのぞ。神の守をしておれば、諸車に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは氏子が参拝の早い遅いにかかわるぞ。
 神が一体じゃによってここにお道の信心でいう神様とは、ここに神は一体じゃによってとここに教えらえてありますよね。神は一体ですから、おかげを受けると言うことは天地神乃神様の信心を頂いておるから、おかげが受けられるということが分かります。天地金乃神様の信心を一心にしたところでおかげは受けられん。金光大神の信心に世っておかげは受けられるのです。言うなら、そのおかげを取次いでくださる人の信心によって違うのだ。ここんところをだんだん分かって来ますとね。金光様の御信心がはっきりしてくるんですよね。金光大神の取り次ぎによっておかげを受けるものであるが、その金光大神の手がかりの信心、その力によって神様のひれいが違ってくる。例えて申しますと、昨日総会の後に私は奉仕着を控えで脱ぎよる。2、3人の婦人方達がその私の袴をたたんだり、着物をたたんだりしてくださりよった。これは、もう信心で着ておっておいでるととってもすばらしいもんに見えたってその着物がこの袴もとても上等に見えた。実際そばとってこうやってひだんで見るとそうでもないとそれは、着手が違う、と私は申しました。確かにそうなんです。どういうすばらしい、例えばなら、10万も20万もするような着物を着ましても着手によってその着物がかわってくるんですよ。いかに天地金乃神様、世界中の氏子におかげをやってある。平等におかげをやってある。そういう、例えば、神様を頂いておっても、それを頂くものの頂きぶりと言うか、力によって天地の親神様の働きが10にもなり、100にもなり 1000のもなり、万にもなるわけなんです。もちろん、この92節というところは、これは、道の先生取り次ぎ者に対する。これは、戒めのお教えだと私は思うのです。最後の所を見るとようはっきり分かる。信心は神の守をしておれば、とにかく、平素身を慎まなければならない。朝寝はしてはならぬぞ。朝早く起きると遅く起きると言うのは、信者の早い遅いにかかわるぞ。これは、早い遅いじゃあないだけじゃない。おかげをたくさん頂くたくさん頂かないにかかわるぞ。おかげを受けられる、受けられないと言うことにかかわすぞ。ということなんですね。そこで、例えば、おかげから、おかげを求めるならです。やはり、いわゆる、おかげのたすけを借りなければならない。また、そこをおかげから、おかげを求めていくならば、できるだけそういうごひれいを現わしておられるところの教会でなからなければ、おかげをうけられないこともはっきり、このところで分かる。けれども、信心を頂こうと頂こうとするなら、そういうわけにはいかん。そういう意味で合楽の教会なんかは、おかげを受けられない。だから、おかげを受けたい、と思うなら、やはり、おかげをどんどん渡しなさるところへ参らなきゃあおかげを受けられんこととなる。そういう点では合楽では、おかげを受けられない。おかげから、おかげを求めていく人にはだから、おかげを受けられないと言うことが分かる。ただ、めいめい本当におかげを受けておる人が亡い。まあ、おかげと言えば、病気が治る、金銭のお繰り合わせが頂ける。金光様の信心を始めよ。なさっちゃたら、瞬く間にお金持ちになんなさったと、いったようなこと。合楽では非常に少ない。なるほど、それは、何と言いますかね。例えば、商売人の方が手形から手形のことをお願いなさる。もうそれこそ、時間を切っておかげを頂かないと言う人はない。みんなおかげを受けるけれども、それは、手形が本当に時間ぎりぎりに神様の働きの間違いなさを分からして頂くだけでしょう。変わっていきよらん。そういう意味合い程度のおかげ。たとえば、人間関係なら、人間関係。経済ならば経済。病気ならば病気と言う意味合いにおいてもなるほど、ここではね、なるほど、医者が見放した様な病人でも助かるおかげと言う例はたくさんある。人間関係でもただこちらの心の持ち様一つでこのようにスムーズにこのように円満に行くものを円満に行かなかったと言うところが円満に行くようになっておるというおかげは頂いておる。けれども、みんながおかげおかげというてもそういうのではない。いわゆる心のおかげよりも形のおかげをおかげとこう思うておる。心のおかげよりも形に現れて来るものをおかげと思うておる。形のことをおかげと願わしてもらうおかげを頂きたいならば、合楽でおかげを受けられんじゃなくてもおかげは受けにくい。だから、ここにはあちらに参っておかげを受けられたけれども、ここでは、おかげを受けられんということはない。というのは、守り守りの力によって、神の非礼が違うのであると書いてある。信心のお徳を受けるのは、あすこへ参ったから、ここへ参ったからというておかげが違うとおっしゃっていない。ここんところにね、お徳と言うものは、おかげを頂けるところの教会でなからなかれば、お徳を受けられんということじゃない。いやむしろ、どちらかと言うと、おかげの受けられない、言うなら、合楽のようなところでなからなければ、おかげを受けられない。おかげと言うのは徳ということ。先生おかげをもうちょっとどんどんお取り次ぎしてください。ところが、私に力がないのではありますけれども、ここでは、なかなかおかげのお取り次ぎを頂くことは、出来ない。ただし、信心のお取り次ぎだけならば、私はどこにも負けんだけの信心がお取り次ぎ出来ていると私は思う。信心のお取り次ぎを頂くということなんです。問題は信心のお取り次ぎを頂くということは、どういうことであろうか。その信心におかげが伝承して来ると言うか、おかげを受けられる。これだったら、どこでも同じでしょうが、信心を頂くと言うことは、おかげおかげと言うておかげを頂くと信心がおろそかになる。本当の所がわからんようになる。合楽では、おかげを頂きたいが合楽の信心は本筋だと、例えば、目に見えれば、分かる昨日総会の時誰かの発表にありましたようにです。須田博士が見えてそして、そのお礼の手紙の中に真の信心をここに見る、見えたと合楽の信心にふれて誠の信心とはこういう信心をもっていうのだと書いておられる。甘木の平田さんがここへ初めて見えられてここで話を聞かれて合楽はお道の信心の本筋をいっておると発表されたとことなんです。これはおかげを受けられる受けられないことじゃあない。ですから、ここにお引き寄せ頂くものはね、その本筋の所を頂かなければ、伝わっていかん。おかげはあの世にはもっていかれん。おかげはこの世に残しておかれん。いや、むしろその頂いたおかげが禍の本になる。信心の本筋とは、ここなんです。真の信心とはこれだ。その誠の信心を身につけていく。本当の信心を自分で頂いていく。そういう意味合いにおいてならば、私は誰はばかることなく言えれること、これは、私はどこまでも現在の合楽の信心はです。おかげは渡し切っていないけれども、信心を渡し切っておるという意味合いにおいてはそれは、探りをいれるようなものじゃあない。まあ、こういうようなもんじゃろかといったようなもんじゃない。ただ、自分の体験から生まれただけのものじゃあない。言うなればです。神様直伝であり、いうならば、教祖直伝なのだ。日々、頂いていく御理解はそれなんだ。こうじゃなかろうかというのじゃあない。教祖様がこういうお教えをくださるときにこういう御真意、こういう広さ深さをもってこのお教えは説いておられるのだ。神様を信ずると言うことはだから、教えを信ずることだ、と。だから、私は極言しておる。神様を信ずると言うことは教えを先生はああおっしゃる。けれども、といったようなものじゃあないのだ。それを信ずる。たとえば、稽古を皆さんはだからしておる。おかげでその信心が血肉になり、それが力とも徳ともなっていく。それに反応してくるところのおかげ。私ははっきり皆さんの本当のおかげを求めるなら、それは、金光教でなかでもようございましょう。何々様発こうしてござるところがある。ですから、みなさんが、おかげから、おかげを求めるなら、合楽じゃあだめだ。私もそのおかげを守り守りの力があるとも思えないから。私自身があるとも思えないから、そういうふうに怪しきなんです。力がないけれども、私はね。信心を皆さんにお伝えすると言うことならば、私はだれはばかることなし。合楽では、いわば、お医者さんがこの病院はどこが悪いか、はっきり分からん。だから、薬をいろいろ持ってみる。昨日は赤いのを飲んで、はっきりせんだったから、今日は白い薬を飲まそう。それでも、いかんならまるで、探りをいれるような言わば薬の与え方。ところが、ここでは、そうでは、ないんぞ。一人一人この薬を飲ませにゃあもう絶対おかげ、探りをいれるのじゃあない。そのまま効くのだ。けれども、どんなにそれが効いてもよ。それを飲もうともしなかったら、効くのじゃあないよね。どんなに的確に頂いても、だから、皆さんおかげでね。おかげにどもこしかけちゃならんて。ですから、ここで信心の稽古させてもらうならです。おかげの楽しみじゃあなくて信心が身についていくと言うことが、楽しみであり、ありがたいと分からなければ、合楽の信心はでけん。一生かね、おかげぐらいでは、はかないものはないとですよ。私がおかげを渡し切れんと言うわけでは、ないですけれども、おかげで安心も何にもでけません。信心を頂いて始めて安心が出けるとその信心が力となって徳となって、初めて人間の幸福がここにあるんだと言うことがわかる。しかもそれならば、子供にも孫にも伝えていけるということ。しかも、あの世までも自分が持っていけることが出来ると言うこと。ここでは、取り次ぎ者のお道の教師に対しての精進と言うことをね、願ってのことが、説いてございます。けれども、私は今日はこの92節から頂きましたこと、感じさせて頂きましたこと、なるほど、世間これは誰しもですけれどもですよ。皆さん方だって同じこと。やっぱり、百万円の現生と百万円のお徳をここへ並べたら、ひょっとしたら、ほとんどの人が百万円の現生の方を取ろうとするだろう。けれども、その百万円は使ったら、使うだけ減るんだ。50万使えば50万、90万使えばもうあと10万しかないのが現生なんだ。ところが100まん*のお徳と言うほうはね、いくら使うてもいくら使うてもやはり百万*。しかもそれならば、あの世にも持っていけ。この世にも残しておけると言う火が点くような金をためてもつまらんということなんです。そういう私どもがですね。おかげを求めてならんというのじゃあない。それを求めてん実はご縁を頂いた。それを頂きたいばっかりにお参りしよる。そうした中にです。日々、いうならば、的確に一人一人の心の中にそれを頂く気になれば、信心が入って行く。そういう人たちが信心のありがたさ、信心の尊さが分かってくる。神様がおかげをくださろうと言うてももうしばらく待ってくださいと。私に受けものが出けてから、力が、出けてから頂くというようになるまで、出けてくると私は思う。そこにですね。私はこの92節から、そういう様なものを感じた。あそこへ参るから、おかげを受けられる。ここでは、おかげを受けられない。そういう******
合楽では、おかげを受けられないと言う教会だとこう思う。けれども、ここでは、信心を説く。ここでは、私はお徳を説く。みんなに、いわゆる本筋の信心を分かってもらいたいと願う。本気で御神徳を受ける稽古を受けないといかん。そう意味ならば、現在の合楽は、どこよりも信心が受けられる。しかも、間違いなく受けられる。そういう意味合いならば、合楽ならば、今こそ、ここでならお徳が受けられる。先日、ある人がお知らせを頂いた。丁度合楽のお広前がもう鯉がいっぱい泳いでおる。数え切れぬほど、泳いでおる。しかも、どうしたか変か、水が減ってしまう。ですから、そこへ入って鯉をつかもう。掴み取りが出来ると言うような状態。水が少なくなっているということは、おかげが少ないと言うこと。水はお恵みということ。おかげが少ない。ここではおかげが受けられない。おかげが少ない。それでもね。水が少ない。おかげでその鯉がね、もうごそごそ背中を出して泳いでおる事が分かる。鯉というのは、お徳ということ。いわゆるお徳を頂こうと意欲をしなかったら、どんなに良い薬でも飲もうと思わなかったら、だめだということ。そこで、お徳を頂くためにはかく信心せよ。こうあれよというわけなんですよ。それを守らず、高ぜずして、お徳を受けられることは絶対ない。一番おかげは、水が少なければ、頂けないお恵みが少ない。おかげおかげとおかげを求めてくるものは、参ってこんがよい。参って来よっても、おかげは受けられんて現在の合楽では。けれども、信心が頂きたい。本気で本筋に触れたい。本気で神徳とはどんなもんだろう。その御神徳を頂きたいと言うならば、もうこれは、絶対確実に頂ける。頂く気になる。むしろ、そればっかり朝から晩まで説いておるのです。合楽では、最近の御理解を思えば、思うほど、それなんです。御真意をわからしてもらうと言うこと。お徳を受けると言うこと。お徳を受けるにはと、その真意がこれがお徳でおろうかと自分に感じられるぐらいにおかげを頂いてくるところに暑さもなからなければ、寒さもない。もちろん、****なんかは、取れてしまうようなおかげを受けておる人たちわずかここへお参りしておるだけなんだ。このように、だからこれだけでいい。これだけの人がいわば、おかげを受けたときにです。神の非礼がそこから、立ち始める。孫の身の上にも自分の身の上にもそういう信心のお徳を受けてそこから、立ち始める。御非礼でなからなければ、それは、いうなら、陰のようなもの、陰のようなおかげに過ぎない。おかげほどはかないものはない。けれども、この信心、このお徳に伴のうて来る。おかげであって初めてそれが本当の意味でのおかげと言える。だから、いうならば、合楽の信心は回りくどい。いうならば、合楽の信心はむずかしい。けれども、難しいところに味わいがある。合楽に参るなら、朝早くから参らならん。それでもう御理解ばっかり。神様の願いがいよいよ、ちじょうになる。神様の願いがいよいよ私ども氏子の上に成就して行く事のためにお互いが本気で奉仕させて頂けるような信心を頂きたい。自分の願いがちじょうになる。自分の商売だけが繁盛すりゃあええという様な自分の願いだけが成就すりゃあそれで、悦に入っておると言うような信心では合楽では流行らん。神様の願いが身の上にも自分の家の上にも現れてくる。神様の願いが成就してくる。そういう神様の願いに立って私どもは奉仕しておる。御用を頂くと言う意味のことを頂きました。おととい、神の願いが成就するためにお互い信心の稽古をさせて頂いておるグループなんです。自分がおかげをいただくためじゃあない。神様がままになってくださるために信心の稽古をしておるのだ。そこに私は神様の助かりがあり、又、氏子の立ち行く所のおかげと言うものがそこから頂ける。神様が助かってくださる神様がままになってくださる。自分と言う小さい人間、自分と言う言うなら、小さな家がです。信心にならせて頂くためにそこから、神様の願いが成就していく。そこから、神様の非礼が輝いて氏子も立ち行くところのおかげになってくる。そういうおかげをお道の信心では、教祖様はそういう信心を教えておられるのだけれども、ただ自分が立ち行く自分がおかげを受けておる。それで自分がおかげを受けておる。それでおかげと思うておったんじゃあ、つまらん。そういうおかげははかないもの神様の願いが成就することのために奉仕しておる。私たちであるという自覚に立って勇んだ信心をお互いさせてもらわにゃあいかんとおもうんですね。どうぞ。